南無阿彌陀佛
あらゆる動物の中で、死を理解し仲間を弔おうとするのは人間だけだと言います。供養する気持ちというのは、いつの時代も変わりません。仏の教えは、死を乗り越え人の魂を救うためにあるものです。
寺を守ることは人間と人間の営みを守っていくことになると信じて、努めて参ります。現在もこれからも皆様にとって分かり易い寺でありたいと思っております。
浄土宗の宗祖は、法然上人(法然房源空)です。誰もが極楽浄土にいけるのだという考えで、阿弥陀さまに救いを求め、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えること。念仏往生を教えとします。
寺を守ることは人間と人間の営みを守っていくことになると信じて、努めて参ります。現在もこれからも皆様にとって分かり易い寺でありたいと思っております。
浄土宗の宗祖は、法然上人(法然房源空)です。誰もが極楽浄土にいけるのだという考えで、阿弥陀さまに救いを求め、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えること。念仏往生を教えとします。
本覚寺の成り立ち
元亀四年即ち天正元年(1573年)、安蓮社良穏上人龍淵前空大和尚によって創建・開山されました。第十九世良威上人が残した創建由来書によると、本覚寺の創建は、牛魂供養に始まります。
その後、数回の火災で寺塔を焼失しましたが、現在の本堂は文化元年(1804年)、山門は文化五年に再建されました。元亀三年、大干ばつがあり村人は困窮していました。予言者の「最上川に五天(碁点)という難所があり、その水底に竜宮があって、これに生牛を供えれば必ず雨が降る」という言葉を信じた村人らが、ある若者の連れていた牛を奪って、最上川の碁点の淵に沈めてしまいました。その後三日間の豪雨があり、干ばつの危機を脱しました。
村民らは牛の持ち主の若者に明銭三貫目を支払って牛の代償にしようとしましたが、若者は、「あなた方の中にひとりでも情け深い人が居れば牛を殺さずとも済んだことなのに」と言い、これを受け取りませんでした。村人らが困っていると、たまたまここを通った良穏上人が牛の死体を上げて、徳眞善畜男の法名を授け、七日七夜の念仏をあげて牛の菩提を弔ったということです。
また村人らに 「お前たちは慚愧の心なく生物を殺したが、牛といえども仏性がある。早く三宝に帰依し懺悔しなさい」と説きました。村人は皆合掌し信心を起こし、壇施をして立派な道場をつくりました。これが犠徳山本覚寺となったのです。
創建由来書より